蒼穹のファフナー EXODUS 第26話-6「一騎と総士の物語は本当に終わったのか」

何処へ行けば… 世界と君が 生命をやり直すために
「Dead or alive and go」
angela / DEAD OR ALIVE

 『EXODUS』で一騎と総士は別の形で一度死に、生まれ変わり、再び出会った。二人の物語は循環し、互いに傷つけ合う前の状態に戻ったとも言える。では「一騎と総士の物語」は本当に『EXODUS』で終わったのだろうか。

 

 その問いに対してイエスと断言することはできない。おそらく企画当初は本当に終わらせるつもりだったんだと思う。実際、『EXODUS』で一騎は総士との別れを受け入れたが、総士は「互いの祝福の彼方で会おう、何度でも」という言葉が象徴するように、今回も一騎から離れることはできなかった。脚本家曰く「どうやっても溝口さんが死なない」のと同様に「どうやっても総士が一騎を手放さない」んだと思う。

 『EXODUS』は一騎が大人になる時に喪失するものである総士との別れを受け入れる物語だった。それでは一騎と総士の二人の関係を最後まで描き切るためには必要なものは何か? それは総士が一騎との別れを受け入れること。実はこのテーマを描くためのヒントは『EXODUS』の中に隠されている。

 子供の頃、総士は一騎を同化しようとしたが、一騎は総士を攻撃して同化を阻止した。その結果、総士は左目に傷を負い視力を失ったが、一騎が与えた傷は一騎と一緒にいなくなろうとした総士に個としての存在を与えた。左目の傷によって自己を獲得した総士にとって一騎は精神的な親とも言える存在だった。総士は同化されるという形で一期ラストと『EXODUS』のラストの二回、一騎と別れたが、二回とも一騎との再会を約束した。これは総士は精神的に一騎から離れることができなかったということを意味している。総士に一騎との別れを受け入れさせるには、精神的には親子という関係にあった一騎と総士を本当の親子関係にしてしまうこと。基本的に親は子よりも先にいなくなる存在なので、総士は一騎との別れを受け入れざるを得ない。

 『EXODUS』の最後で総士はいなくなったもののその魂は転生し、赤子になって一騎たちの前に現れた。ラストではそれから二年後の海神島での様子が描かれ、一騎がそうしと呼ぶ子どもの手を引いて浜辺を歩く場面で終わっているが、これは『EXODUS』で一騎が20歳になり、総士は19歳でいなくなったことを、つまり一騎は大人になったが総士は子どものままだということを表現している。一騎は総士から与えられた傷(いなくなりたい自分)が癒え、大人になることができた。しかし、総士は父、公蔵から自分のためではなく島のためを生きることを強制され、普通の子どもとして育つことができなかった。そのため、総士は精神的には子どものままで、二度に渡る一騎との別れも受け入れることができなかった。総士が大人になるには生まれ直して、子供時代をやり直して、大人になる必要がある。総士が精神的にも大人になった時、『EXODUS』での一騎と同じく、総士は一騎との別れを受け入れられるようになるはずだ。

 

 一騎に関して言えば、『EXODUS』24話で島のコアが言った台詞の内容の大部分が回収されていない。

 一騎「俺も島と一つになるのか」
カノン「それは最後の祝福だ、真壁一騎」

カノン「お前が世界を祝福するなら」

カノン「お前は世界の傷をふさぎ、存在と痛みを調和させるもの。
    我々はお前によって世界を祝福する」
『EXODUS』24話

 もし『EXODUS』の続きがあるとすれば、アルタイルとの対話と竜宮島への帰還を軸に、これらの台詞の内容を回収し、総士が一騎との別れを受け入れる物語になると思う。そこまでたどり着いた時、「一騎と総士の物語」は本当に終わる。

 

P.S. 「我々は『HEAVEN AND EARTH』の続編を望まなければよかったのか?」という問いに対して、私はノーと答える。なぜなら『EXODUS』で一騎と総士が到達した「積極的な自己否定の先にある絶対的な肯定」のさらに先にある答えを知ることができたから。

 

 

個人的な感想:
 これで『EXODUS』26話について考えたことをすべて書いたので終了です。ちなみに26話の放送終了から書いた文章は合計58KBほど。1月20日~1月22日のニコ生の振り返り一挙配信を見て何か思うところがあれば、メモを公開するかもしれません。

シリーズ構成に一言。
 「一期とシンメトリーな構成は美しいが、やはり終盤の尺が犠牲になった。1クール目に最低でも14話、できれば15話までの内容をやるべきだった」

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。