2024年7月、YouTubeで配信していた『蒼穹のファフナー』を見直した時の感想です。
『蒼穹のファフナー』の主人公である一騎が竜宮島ミールの祝福を受けた『EXODUS』24話以降、物語はフェストゥムの言語を使って描かれています。
フェストゥムの言語とは何でしょう。
総士「これが、フェストゥム」
公蔵「いいや、こんなものではない」
一期1話
竜宮島に初めてフェストゥムが来た時、人間はフェストゥムの姿を見ることができませんでした。しかし、実体化というというフェストゥムの行動によって、人間はフェストゥムの姿を見ることができるようになりました。つまり、フェストゥムの言語は「行動」ということになります。
弓子「フェストゥム、実体化します」
一期1話
竜宮島に初めて来たフェストゥムが行ったことは、目に見えないものを実体化することによって、目に見えるようにすることでした。一方、フェストゥムの言語(行動)で描かれた物語である『THE BEYOND』で行ったことは、目に見えないものを実体化することによって、目に見えるようにすることでした。それでは『THE BEYOND』で実体化した目に見えないものとは何だったのでしょう。
一騎「これが真実だ」
『THE BEYOND』3話
それは「真実」でした。しかし、私はフェストゥムの言語(行動)を知らないため、実体化した「真実」を読み取ることはできません。
総士「僕も何度も報告書を書こうとしたがダメだった」
『EXODUS』14話
私はフェストゥムの言語である「行動」を抽象、人間の言語である「言葉」を具象だと考え、論理的思考の抽象と具象を行き来するという手法を使って、フェストゥムの言語(行動)を人間の言語(言葉)に置き換えていきました。これを続けていくと、フェストゥムの言語(行動)を使って書かれた物語を私が理解できる人間の言語(言葉)を使って表現する、つまりフェストゥムの言語(行動)を人間の言語(言葉)に翻訳できるようになりました。
外国語を日本語に翻訳する場合、意味を理解した言葉のみ、日本語に翻訳することができます。外国語と同じようにフェストゥムの言語(行動)も、自分が理解したフェストゥムの言語(行動)のみ、人間の言語(言葉)に翻訳することができます。つまり、私はフェストゥムの言語(行動)を人間の言語(言葉)に翻訳するという行為を通して、フェストゥムの考えを理解していったのです。そして、フェストゥムの言語(行動)を使って描かれた物語をずべて人間の言語(言葉)に翻訳し、実体化した真実を見た瞬間、『蒼穹のファフナー』という物語が終わりました。
『THE BEYOND』の分析が一段落ついたので、一期を全話見直しました。感想は一期と『THE BEYOND』を対比させたものになりました。
一騎と甲洋の関係は一期6話の翔子の死を契機にこじれましたが、世界が平和になった時、竜宮島にフェストゥムがやってくる前の平和だった時の状態に戻りました。
「なあ……甲洋は、来年になったら、どうする?」
何となく答えを予想しながら、訊いた。
「島を出るよ」
「そうか」
「お前も多分、そうするんだろ? 一騎?」
「ああ」
冲方丁『蒼穹のファフナー ADOLESCENCE』一章3
史彦「お前は、どこかへ行くのか」
一騎「甲洋と一緒に世界を見てくる」
『THE BEYOND』12話
『THE BEYOND』で総士がいなくなった後の一騎の行動と一期26話で総士がいなくなった後の一騎の行動を対比すると以下のようになります。
| 「THE BEYOND」12話 | 一騎は総士の灯籠を流した(=一騎は総士と別れた) 一騎は甲洋と一緒に竜宮島から旅立った |
|
| 一期26話 | 一騎は総士と別れた 一騎は真矢と一緒に竜宮島に帰った |
一期26話で総士がいなくなった後、一騎のそばに甲洋はいなかったので、一騎は真矢と行動しました。一方『THE BEYOND』12話で総士がいなくなった後、一騎のそばに甲洋はいたので、一騎は甲洋と行動することを選びました。つまり、真矢は総士の位置にいるキャラではなく、甲洋の位置にいるキャラクターだったのです。そのため、一騎と真矢の関係は、『THE BEYOND』12話で竜宮島にフェストゥムがやってくる前の平和だった時の状態に戻ったのです。
「(前略)帰ってきてよ。私……多分ずっと、ここにいるから」
冲方丁『蒼穹のファフナー ADOLESCENCE』一章2
真矢「私じゃ一騎君のいる場所には行けないから、
ここで帰る場所を守ってるね。
たまには帰ってきてね、竜宮島に」
『THE BEYOND』12話
山野辺脚本と冲方脚本では何が違うのだろう。
谷崎潤一郎は『文章読本』の中で、『源氏物語』の原文とアーサー・ウェイリーが訳した『源氏物語』(英文)の一節を対比させ、その違いについて語っているのですが、その中に山野辺脚本と冲方脚本の違いを指摘していると感じる文章がありました。
僅かな言葉が暗示となって読者の想像力が働きだし、足りないところを読者自らが補うようにさせる。作家の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけである。そう云うのが古典文の精神でありますが、西洋の書き方は、できるだけ狭く細かく限って行き、少しでも蔭のあることを許さず、読者に想像の余地を剰さない。
谷崎潤一郎『文章読本』(新潮文庫)
『ファフナー』において、谷崎潤一郎の言うところの古典文のような書き方、つまり視聴者の想像力で行間を埋めるのが山野辺脚本であるのに対し、西洋の書き方、つまり論理的思考で行間を埋めるのが冲方脚本ということになります。
視聴者が自らの想像力で行間を埋めるためには、脚本家と視聴者が物語の中では説明していない物語の世界観を共有していることが必要ですが、『ファフナー』は120年ほど未来を舞台にした作品であるため、脚本家と視聴者は物語の中では説明していない部分の物語の世界観を共有していません。そのため、私は行間を埋めることができず、意味のわからない場面が多発しました。しかし、冲方丁は『EXODUS』と『THE BEYOND』で、山野辺脚本では説明していない設定だけでなく、キャラクターの考えや心情も補完しました。