【蒼穹のファフナー】脚本家の違い

 山野辺脚本と冲方脚本では何が違うのだろう。

 谷崎潤一郎は『文章読本』の中で、『源氏物語』の原文とアーサー・ウェイリーが訳した『源氏物語』(英文)の一節を対比させ、その違いについて語っているのですが、その中に山野辺脚本と冲方脚本の違いを指摘していると感じる文章がありました。

僅かな言葉が暗示となって読者の想像力が働きだし、足りないところを読者自らが補うようにさせる。作家の筆は、ただその読者の想像を誘い出すようにするだけである。そう云うのが古典文の精神でありますが、西洋の書き方は、できるだけ狭く細かく限って行き、少しでも蔭のあることを許さず、読者に想像の余地を剰さない。
谷崎潤一郎『文章読本』(新潮文庫)

 『ファフナー』において、谷崎潤一郎の言うところの古典文のような書き方、つまり視聴者の想像力で行間を埋めるのが山野辺脚本であるのに対し、西洋の書き方、つまり論理的思考で行間を埋めるのが冲方脚本ということになります。

 視聴者が自らの想像力で行間を埋めるためには、脚本家と視聴者が物語の中では説明していない物語の世界観を共有していることが必要ですが、『ファフナー』は120年ほど未来を舞台にした作品であるため、脚本家と視聴者は物語の中では説明していない部分の物語の世界観を共有していません。そのため、私は行間を埋めることができず、意味のわからない場面が多発しました。しかし、冲方丁は『EXODUS』と『THE BEYOND』で、山野辺脚本では説明していない設定だけでなく、キャラクターの考えや心情も補完しました。