蒼穹のファフナー EXODUS 第26話-15「一騎と総士-生と死と…」

 一騎と総士が象徴しているものの一つに生と死がある。一騎は人であること、いなくなりたいという感情から死を象徴し、総士はフェストゥムの持つ永遠、ここにいるという感情から生象徴している。そして、一騎と総士がともに存在することによって、互いに欠けている部分を補うという形になっている。特にいなくなりたい一騎は総士の持つ生の力によって、存在し続けているとも言える。

 

・「いなくなりたい」と「ここにいる」

総士「ミールの因子が僕らの遺伝子に移植されてるんだって父さんが言ってた。
   ぼくはこの島のコアを守るために生きてるんだって、父さんに言われた。
   自分や他の誰かのために生きてちゃいけないんだって」
一騎「総士…」
総士「ぼくは初めからどこにもいないんだ。
   だったら、お前と一つになれる場所に帰りたい、一騎」
一期15話

 最初に「いなくなりたい」という気持ちを持ったのは総士だった。フェストゥムとの半同化状態であった総士(※1)は同化というフェストゥムのやり方で一騎と一緒にいなくなろうとした。そんな総士の行為に対して一騎は反撃し、その結果、一騎は総士の左目に傷を負わせた。

一騎「ずっといなくなりたかった。
   俺なんか、いなくなればいいって」
一期15話

 この事件の後、一騎と総士の気持ちが反転し、今度は一騎が「いなくなりたい」という気持ちを抱くようになった。

総士「僕はここにいる。
   まだここにいるぞ、一騎」
一期23話

総士「僕はここにいる。
   いつか再び出会うまで」
一期26話

 言葉では表現されていないが、総士を傷つける前の一騎が抱いていた「ここにいる」という気持ちは総士が持つことになった。

一騎「総士、俺はここにいる。
   ここでおまえを待っている。ずっと」
一期26話

 この総士の言葉がいなくなりたい一騎を生の世界に引き止めた。

 

 『EXODUS』で一騎はファフナーのパイロットとしての定め、いなくなることと向き合うことになった。しかし、皮肉なことに一騎は「生きたい」(※2)と願うようになった。

一騎「戦うだけじゃ希望になれないって思い知った。
   ただ命を使うだけじゃ、どこにもたどり着けない」
総士「同感だ。僕らには新たな平和を作る術がない。
   世界を導く者たちを、対話の力を守ろう。
   犠牲になったすべての人のためにも」
一騎「そのために俺はここにいる」
『EXODUS』21話

 一騎はシュリーナガルから竜宮島へ戻る旅で、自分の果たすべき役割について考え続け、その答えが「ここにいる」ことだった。その結果、「いなくなりたい」と「ここにいる」という気持ちが一騎と総士の間で再び反転し、「いなくなりたい」という気持ちは総士に返された。もはや一騎の中で「いなくなりたい」という気持ちはなくなっていたので、同時に総士という存在も消えたということになる。

 

・人とフェストゥムの傷

一度フェストゥムに同化された総士は存在と無の調和で体を取り戻し、この世界に帰ってきた。そして、一人の人間としてできることをすべてやり、無に還っていった。

 この総士の行動を書き出した時に思い出したのが、アストリッド・リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』(※3)だ。相次いで亡くなったヨナタン(13歳)とカール(10歳)の兄弟ははるかな国ナンギヤラで再会し、中世風の世界で生きていくことになる。この小説の中に「このナンギヤラでは、ほしがっていたものが、みんな手にはいるんだね。」という台詞があるだけど、「一騎とは仲直りをしてファフナーに乗れる。そして真矢とも普通に話せる」という総士の望みの叶った『EXODUS』での総士が同じ状態にあると言える。ナンギヤラはこの世で生きることのできなかった人が生を全うする場所だとすれば、一期ラストで人としては一度いなくなった総士が『EXODUS』では生きているときにできなかったことをやっているのと同じ状態と言うことができる。つまり存在と無の調和で体を取り戻した『EXODUS』での総士は、まさに死を生きている状態と言えるのではないか。

 『はるかな国の兄弟』はカールは兄ヨナタンと再び死に別れることに耐え切れず、二人で崖を飛び降りてナンギヤラからナンギリマへ行くという場面で終わる。これは『EXODUS』26話、存在と無の地平線で一騎が総士の後を追って二人で無に還り、転生することなく物語が終わったバージョンと言うことができる。総士が一騎との別れ際に「そして互いの祝福の彼方で会おう、何度でも」(※4)と言わなければ、『はるかな国の兄弟』と同じく一騎も総士と一緒に存在と無の地平線を越え無に還ることを選んだような気がする。しかし、総士のあの言葉があったからこそ、一騎はこの世界に留まって生きることを選び、生まれ変わった総士と出会って終わるという形になったのだと思う。

 子供の頃、人とフェストゥムの間をさまよっていた総士が「いなくなりたい」と思ってしまった時、総士はフェストゥムになってしまった。その結果、一騎と総士は傷つけ合い、共に傷を負った。一騎は「たくさん敵の命を奪ってきた。返せるものは返すよ」(※5)と言っていたが、一騎と総士が人としての命を終え、存在と無の調和を得た状態になった時、フェストゥムが二人が傷つけ合った後に失ったものを一つずつ返していた。

 『HEAVEN AND EARTH』で存在と無の調和を得て肉体を取り戻した総士は左目の視力を取り戻し、『EXODUS』ではファフナーに乗って戦うことができた。だとすれば、『EXODUS』で島のミールとの間で調和を得た一騎が一度は失ったが取り戻したものは、『EXODUS』26話のラストで描かれた海神島での2年後の姿なのだろうか。一騎の望みとは総士を傷つけることなく、一緒に大人になること。

   史彦「フェストゥムが与えるだと。
      我々から奪った命を返してくれるとでも言うのか」
ミョルニア「それは、不可能だ。
      我々にも時間は操作できない。
      だか、時間の到達していない未来でなら
      私とお前は求めるものを共有できる」
一期24話

 ここでのミョルニアの言葉通り、一騎の望みは過去の時間の中にあるので、同じ形で取り戻すことはできない。フェストゥムが一騎に与えることができたのは、生まれ変わって一騎が傷つけていない状態の総士と共に過ごす時間だった。

 だとすれば、『EXODUS』26話のラストのこのシーンは、この言葉そのものを表現しているのだと思う。

カノン「お前は世界の傷をふさぎ、存在と痛みを調和させるもの」
『EXODUS』24話

 冲方丁は「一騎と総士の関係が、上手くフェストゥムと人類の関係になっています」(※6)と言っているが、『EXODUS』で一騎と総士と総士の傷が癒やされたということは、人類とフェストゥムの傷も癒やされたということになるのだろうか。しかし、『EXODUS』で和解が成立したのは竜宮島とフェストゥムの間だけで、人類とフェストゥムとの間での和解は成立していないと感じる。

 

・「生まれ変わる」ということ

 ファフナーは西欧のファンタジー小説と重なる要素が多いのだけど、それらと決定的に違いう点が一つある。西洋の小説では一人の人間が生き直す場合、場所を変えることが多いのだけど(『はるかな国の兄弟』は別の世界、マイクル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』は別の次元)、この作品では同じ場所で転生し命を繰り返す。ここが西洋と日本の決定的な価値観の違いでもあると思う。「生まれ変わる」をキーワードに東洋と西洋の価値観の違いについて説明している演出家ハリー・クプファーのインタビュー(※7)を思い出した。

─登場人物の中にも仏教的な要素はありますか。

『パルジファル』の中で、日本の皆さんだからこそ理解しやすい人物がいます。それはクンドリーです。彼女は、十字架にかけられたキリストを嘲笑したために呪われ、何度も生まれ変わって大変苦しい人生を歩まなければならない運命にある女性です。キリスト教では「魂がさまよう」という言い方をするのですが、それだとクンドリーの存在を正しく説明できません。「生まれ変わる」というのは、むしろ仏教の輪廻転生の思想です。実は、西洋社会ではクンドリーという人物像とどう向き合ったらいいのか分からないという反応が多々あるのですが、仏教を知る日本の皆さんならばきっと分かっていただけると期待しています。

 このクプファーのインタビューを読むと、日本では違和感を感じる人が少ない「生まれ変わる」という考えはキリスト教圏では理解しがたく、仏教の輪廻転生の思想を反映したものだということがわかる。ファフナーの根幹をなす考えの一つに「生まれ変わる」ことがある。一期で島のコアである乙姫がその身を持って島のミールに生と死の循環を教え、その結果、島のコアは生まれ変わる存在になった。『EXODUS』26話で一騎が総士の後を追い、二人が一緒に存在と無の地平線を越えて無に還ったというエンディングだったならば、それはキリスト教的な終わり方をしたということになる。しかし、乙姫、来主操、アショーカのコアといった人と関わりを持ったフェストゥムは生まれ変わることを選んでいるので、一騎と総士が無に還って存在が消えるというエンディングはキリスト教的でこの物語にはそぐわない。むしろ一度無に還った総士の魂が生まれ変わり、島のミールから与えられた生を全うするまでこの世界に留まることを選んだ一騎と出会うという形の方が、乙姫が島のミールに教えた生と死の循環を総士を通じてフェストゥムも学んだということを表現していると思う。

 

 ファフナーは脚本の冲方丁が子供の頃、海外で生活した経験があるため、西洋的な価値観を反映しているという部分が多々ある。しかし、「魂の転生」という部分は仏教の輪廻転生の思想に基づく日本的な価値観を反映したものだと思う。

 

※1 「母・梢の研究により瀬戸内海ミールの因子を移植されている総士はフェストゥムとの半同化状態にある」一期DVD6巻リーフレットより引用。

※2 『EXODUS』6話で一騎が書いた短冊。

※3 アストリッド・リンドグレーン『はるかな国の兄弟』(岩波書店)。

※4 『EXODUS』26話の総士の台詞。

※5 『EXODUS』18話の一騎の台詞。

※6 『蒼穹のファフナー Blu-rau BOX』のブックレット「冲方丁×プロデューサー座談会」より引用。

※7 新国立劇場『パルジファル』のハリー・クプファーのインタビューから引用。

 

P.S. 『はるかな国の兄弟』はファフナーと比較すると興味深い要素が多いので、一読をお勧めする。ヨナタンの持つ主人公としての属性がファフナーでは一騎と総士に分割されているのが興味深い。